山田隊長日誌

山田隊長の日誌です。

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一月が行く前に

2001年以来、12年ぶりに、晴れ晴れとした脳と心が戻っている。この1月は日々楽しく充実していた。
ある気功師のおかげが大きい。
「気功師は宇宙自然のエネルギーを取り込み送るパイプの役をするだけ、自分は疲れない。疲れるようじゃ、気功とは言えない。」と、その気功師は言った。
20、30歳代、自分自身も天の星々や大地のエネルギーに元気をもらい、気力の折れる事はなかった。
今の気分を詠めば、下記。続きは、後日。

地の力 星々の声
しみいりて
時々刻々と
我が命いきす

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昨日の続き

昨日の地平線通信の原稿。
地平線会議代表江本さんからの依頼は2300字でとの事でした。
マックのワードに相当するpagesで書いたのですが、1ページ400字と思い込んでいて、6ページ書くつもりで、一つのメインワード「始末に困る者」と、サブワード3つ書き出し。
それに付随して、思いつく人の言葉や自分の経験を箇条書きして書き始めました。
3枚目になった時、ふと思いついて文字数数えたら、1枚半で2300字になっている事が判明。
急ぎ、中間を削って、まとめを書いて江本さんにメールしました。

以下の文は、その削った部分です。これまたお暇な方は、お読みください。
ちなみに、古人の言葉について、よく確認してないのが多々あります。詳しい方、間違っていたらご指摘お願いします。特に、日中の古典に詳しい屋久島の野々山君、よろしく。


 上の廊下で唯一の砂川原で休憩した後、その日の朝からの雨で、巨大な漏斗状になっている黒部川の水量が瞬間的に増水し激流になった。すぐ右岸の川原の最下流にラフトボートをつけたが、右前のMが岸に降り、ボートにつないだザイルを岩の支点に結ぶ前に、水の力でボートは残り3人を乗せたまま激流に引き戻された。操作不能の激流に激変した流れは両岸絶壁の下の廊下核心部を悪魔の喉口のように見せて激流を飲み込んでいた。
 3人で操作し、なんとか川の中の岩にボートをつけた。ザイルをMに投げ岩に固定してもらってから、振り子の要領でボートをなんとか岸につけ危機一髪助かった。一難去ってまた一難、それから3日間雨は降り続けテントを張った川原の高台に増水は迫ってくるは、周りの絶壁は至る所滝になって土砂を落として、生きた心地がしなかった。4日目雨もやみ減水した下の廊下核心部を黒部湖まで一機に下った。
 下の廊下は上の廊下よりさらに難関で、滝も多く何度か転覆し、そのまま流されたら滝を落ちる絶対絶命の危機を何度か経験し、最難所は巻いた。
 8月の後半から、黒部川を完全全流下りできなかった無念を晴らすべく、前から計画していた信州(長野県)県境一周縦走に向かった。JR小淵沢駅からスタート甲斐駒ケ岳から南、中央、北アルプスを連続縦走し、信越県境の山から苗場山へ移り、長野関東の県境の山を甲武信ヶ岳、最後は八ヶ岳から小淵沢駅に降りる計画だった。
 山のガイドブックの平均所要時間の3倍で歩き、3日分を一日で歩いた。というより、ほとんど走っていた。10月末浅間山まで来た時、大学に戻らないとこの年の単位をすべて取れなくなってしまうと観念して下山、残りは翌年春に持ち越した。
 山にも熱中したのは「日本百名山」深田久弥著の日本の山がほとんど山岳信仰の対象で初登頂者は多くが山岳修験者だった。少年時代、山川海の自然信仰の残る田舎で育った僕に魅力だった。さらに南米遠征のカヌー行は6ヶ月、後半年はアンデスの六千メートル峰十座登る事をもう一つの目標に置いたからだった。
 結局、南米三大河川行はなんとか成功、アンデスは最高峰のアコンカグアは登ったが、南米南端のパタゴニアに足をのばしている間に1982年3月の帰国時期がきてしまった。
 1970年代の後半から’80年代前半に学生時代を送った私たち大学探検部員の必読本は『探検と冒険』(朝日新聞出版)だった。その中でSF作家小松左京がコラムで「大人の探検の時代」の到来を告げている。一方通行の植民地化、領土化、資源収奪、研究資料収集(少年の探検)から、相互交流の新しい「大人の探検」の時代だと。私の琴線に響いた。
 英国のSF作家アーサー・クラークは「幼年期の終わり」で全人類が盲目になる代わりにテレパシーでつながるという、今のインターネットワーク社会の到来を予測するような話を1960年代に書いている。クラークとSF小説界の二大巨頭のもう一人アイザック・アシモフはSFエッセイ集で「全人類の重さが地球より重くなる日」を当時のデータから予測。そのはるか前に水、食料、資源の枯渇を予測。その状況を、当時世界一の高さだったエンパイアステートビルの屋上から飛び降り自殺をはかった人が20階まで、落ちてきて、「俺はまだ生きているぞ。」と言っているようなものだと喝破している。これを書いたのが、ローマクラブ編集の「成長の限界」(1972年)より前の、1960年代だ。「科学は根拠のない予言はしないが、予測はできる。」と博覧強記のアシモフは言っている。                
2001年「環境と情報の世紀」と題したシンポジウムが、四万十で開かれた。当時の改革派4知事、「増田(岩手)、寺田(秋田)、北川(三重)、橋本(高知)」のパネリストは仲良く四万十川の沈下橋を歩いた。
 1997年「2020年からの警鐘」という記事を日本経済新聞社が連載し環境面で私も取材された。これは、日本の政治経済社会についてだが、他の国際情勢も2020年代に多様な要素の限界を予測していて、その通りに進んでいるのが不気味だ。しかし、楽しみでもある。既成の価値観、概念にとらわれない「始末に困る者」の出番がくるかもしれない。
 「男を無中にさせるのは危険と遊びだ」とニーチェは言ったらしい。
 「正しい事は時と場所と人によって変わる。楽しい事は万人に共通」
 黒船も焼け野原もないが、大きな転換期が来ている。それも地球規模で。心技体の準備をしておこう。
 今は、「雨にも負けず、、、、、苦にもされず、ほめられもせず」の「デクノボウ」以下の「ヘタレ」だけど「待てば海路の日和あり。」のココロなのだ。

遅ればせ、新年のあいさつ

遅くなりましたが、今年初のブログです。明けましておめでとうございます。

今年はここ10年来で一番調子よいです。
その謎は、いずれ確信が持てたら書きます。

正月3ガ日は駅伝観戦三昧。これを挟んで、
昨年末から年明け7日まで、過去5年間の年賀状をチェック。
この間、忙しかったり、体調不良で年賀を書けなかったので。
全部で、130枚になってしまいました。これでも昔(アフリカ、チャドからは300枚以上)よりは少なくなりました。

四万十河口からの初日の出の写真を載せたかったのですが、アップロードがうまくいかないので、文章だけ。
年賀を書き終わって3日がかりで地平線通信新年号の原稿を書いていました。(下記)
地平線会議は1979年に発足。探検、冒険、秘境好きの変わり者の集まりで、月一回の通信の発行と報告会を30年以上続け、昨年報告会400回も越えました。それを期しての原稿の依頼でした。では、お暇な方は、お読みください。

[始末に困る者]よ出てこい
「山田さんは、西郷隆盛いうところの『始末に困る者』ですね。」「何ですか、それは?」「西郷さんは『名も金も地位もいらぬ、命も惜しまぬ者は始末に困る。しかし、この始末に困る者でなければ、天下の大事は成せぬ。』と言っています。」
 時は1995年某月、場所は都内のとある高級ホテルの大広間。イオン環境財団の設立5周年記念会が行われていた。そこで私は第1回イオン環境財団最優秀活動団体賞を授賞した。当時私が活動拠点にしていた「緑のサヘル」はアフリカ・チャドで砂漠化防止植林活動をメインの環境NGOとして1991年に設立。イオン環境財団も同年設立され、その事務局長のMさんから相談を受けた。「世界中で木を植えているNGO を紹介してください。また、NGO運営していくために何が一番大変ですか?」
 世界地図が万遍なく埋まるように世界で植林や森林保護をしているNGO10数団体を紹介し、一番困っているのは、各種助成金や補助金は人件費が出ないものが多くその資金調達が一番の苦労だと答えた。「じゃあ、うちはその人件費を出しましょう。」と、この10数団体に300万円づつ助成してくれた。これはありがたかった。現地日本人スタッフ2人分の人権費になった。 最優秀活動団体の受賞理由は自然環境も政情も最も厳しいチャドで、住民や小学生たちと植林活動をし、実績をあげていると他の団体からの推薦が多かった。と説明があり賞状をいただいた。チャドでの活動の前、延べ5年間、パンアフリカ河川行でアフリカの気候風土に慣れていた事が役に立った。だいたいこういう場は設立時からの代表高橋さんにまかせ、私は現場で住民と一緒に汗を流している方が、気楽でよかった。この時は、高橋さんがチャド出張中で変わりに出た次第。各界のお偉方とおぼしき人たちの多いこの席で、その肩書きは忘れたが、鹿児島出身というこの人と私のこれまでやってきた事など雑談している時、上記の「始末に困る者」との言葉を知った。
 その後、「私たちは木を植えています」とのコピーを打ち出し世界中で木を植えている写真の看板とともに環境に配慮した製品販売でイオンは成長しライバル企業を追い越していった。1992年にブラジルで地球環境サミットがあり日本の奥様方にもこの方向は受けたのだろう。助成を出す方、いただく方の両者にメリットのあるうまい金の使い方。今では、環境、エコへの配慮を言わぬ企業は珍しいくらいになったが、イオンはその先駆け企業の一つだった。私は5年で「緑のサヘル」を後輩に引き継ぎ、ナイルへ転戦したが、緑のサヘルはその後も各種助成団体から賞を受け、その度に高橋代表から連絡があった。
 さて、「始末に困る者」で、思い出した。
 島国日本の首都東京のとある喫茶店で、1979年7月、島国の枠に収まりきらない「始末に困る者」たちが集まって会議とも自由放談とも何とも言えぬ熱気だけは発散させる集団があった。私は農大探検部の(3年生がいないため)2年生チーフリーダーとして参加していた。一番の年少(20歳)で片隅でだまって、こんな人たちがまとまるのかなと、熱気はわかるが内容はよくわからず小さくなって座っていた。
 探検,冒険、辺境好きの日本の枠にはまらぬ人たち(個性というより灰汁の強い強者が多かった)が、その行動の記録を残していこうと始めた集まりが、「地平線会議」の名前がついた1979年8月。その頃、私は農大探検部の仲間たちと日本一の激流と言われる黒部川の全流航下に挑んでいた。1981年、農大探検創部20周年記念活動として、南米の3代河川オリノコ、アマゾン、ラプラタをつないでカヌーで南米縦断する計画の準備中で、日本中の川下りで経験を積んでいた。源流の山に登ってから海まで下る全流航下や激流と言われるところに通い技術強化に励んでいたが、日本最大の激流黒部はやっておかなければならぬハードルだった。
 黒部川は源流の鷲羽岳から海までの全流下りに決めていた。黒部川は黒部ダムのつくる黒部湖の上下流に上の廊下、下の廊下と言われる北アルプスの立山、後立山連邦に挟まれた両岸断崖絶壁の峡谷があり、沢登りとしても最高級難度にランクされていた。私たちは、川下りの訓練とともに沢登りの技術向上のため山岳部の先輩に頼んでロッククライミングの訓練もした、丹沢、奥多摩、三つ峠、谷川岳一ノ倉沢とグレードアップして、黒部川に挑戦した。
 この川下りで、命を落としてもおかしくない場面は何度かあった。その後も、オリノコ河口の森でピストル強盗、パタゴニアのパイネ川の増水で橋が流され氷河の解けた極寒の水を泳いでわたった時、コンゴ川で蜂の群れに30カ所以上さされた時、チャドで反政府軍の攻撃、四万十で軽トラで25m落ちた時。危機一発は数えたらきりがない。
 政治の迷走、経済競争の激化と貧富の格差の広がり、地球環境の悪化の継続。このままだと2020年代は多様な要因が限界を警鐘している。「始末に困る者ども」の出番がくる気がする。ただ、あえて危険を求めるのはただの無謀。次の2人の言葉をいつも頭においている。「困難は好きだが、危険は大嫌いだ」(ガストン・レヴュファ、フランスの名登山家)「彼を知り己を知れば、百戦して危うからず」(孫子、中国古代の兵法家)。それでも「命は死ぬまでは持つのだから惜しんではいかん」(チャドの接ぎ木の師匠)とも言われた。
 早大探検部OBの高野秀行の「怪しいシンドバッド」(集英社文庫)のあとがきに、コーラの瓶に指を突っ込んで、抜けなくなるバカな先輩が「情報で重要なのは2つしかない。命を守る情報と人を元気にする情報だ」と言っている。「名言やなあ、誰やこの先輩?」と高野に聞いた。バカな先輩は私だった。すっかり忘れていた。
「事を成す者は、貧しく無名で若くなければならない」と毛沢東は言った。地平線会議は貧しく無名で若い人が、「始末に困る者」に変態する揺籃器のような場、始末に困る若者たちよ出てこい。




黄河にて

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また、久しぶりのブログ。
 その昔、アフリカで植林している頃、神宮の日青協ビル(青年団の本部)の一室の隅を借りて事務所を開いていた。貸し主は、日本産業開発青年協会と言って、日本中の若者たちにブルドーザーや大型トラックの免許を取らして、田舎に若者が残るように事業を展開していたらしい。高度経済成長の終わりとともに活動も下火になっていた。
 触発されてか、我々が入ってからすぐ、中国の黄河中流域での砂漠化地帯で植林事業を始めた。日本各地の青年団の希望者とも一緒に、顧問と称してよく行った。
 この写真は、青年団の美女でなく、中国の美人モデルでもなく、宮崎の造園専門大学の学生。黄河と禿げ山になった
大青山脈をバックに。
 旧十和村の森林組合で山仕事していたとき、1999年、中国からの研修生を受け入れて、お返しに組合の参事さんたちと、植林に招待されていってきた。
 中国は戦後50年で森林の半分を切ってしまい。今は伐採禁止。50年で元に戻すと大植林運度中、植えた木たちはどうなっているか、再訪したいものだ。

ただ今、デクノボウ以下。青い地球の川を旅して木を植えて(53)

 2002年、12月、忙しさとたまるストレス(具体的に書くときりがないのでやめておきます)で、人生で初めての不眠症になり病院に行ったら抑うつ症との診断、一ヶ月の療養休暇診断書が出され休んだ。「無理すると、長期化して、ひどくなりますよ」と十分注意されたが、当時は一ヶ月休めば、待ってましたとばかりにやることを次々依頼される状況だった。
 うつ病に対する知識もそれほどなく、それまでの習慣で、『壁に当たれば、さらに追い込み頑張れば、やがて解決する』を続けた。
 1998年から3年間は、山仕事とアフリカ・ルワンダの植林支援で余裕がない、と断っていた、四万十川や地域の団体、組織の参加依頼を2001年、(社)四万十楽舎に入ってからは、公共団体の職員として地域貢献もしなければと思い、引き受けていたら、あっという間に、10以上の組織に関わることになり、中には、会長、理事長、実行委員長のような役をやらされるはめになった。(これも、複雑な四万十ブームに便乗した政治的なからみで、中立公平を第一に表明したばかりに回ってきたものが多かった)
 当時の私の手帳には、休日がない。それでも活動が前に進み、周り広がれば、満足感、充実感もあって、ストレスのたまることもなかったと思うが、なにしろ、話し合いの多さの割には、行動が進まない、広がらない。(原因の多くは政治的四つどもえのねじれ現象があるが、書くとややこしいので省略)
 とうとう、反復うつ病になり、年々、休養診断の長さと、薬の量が増えていった。四万十楽舎をやめた2010年には、10種類以上の薬を常用し、中には車の運転は控えるようにと処方説明のあるのが数種あって、たしかに、運転中に、吐き気、頭痛、めまいがして、軽い自損事故はよくした。低速運転を心がけたが、どうしょうもなくなると、ドクターストップで休養治療となっていた。

 ということで、完全休職して、2年半、昨年は5ヶ月入院した。宮沢賢治の「雨にも負けず」の詩は、「誰にもほめられもせず、苦にもされず、デクノボウとよばれ」「私はそういうものになりたい」とあるが、今の私は、そのデクノボウ以下、すべてにうちのめされて、夏は暑いし、冬は寒い、家族に迷惑をかけ、世話になっている。

 今、そのヘタレから、少しずつ回復中。「青い地球ーーーー」連載2年ぶり、170編くらいあるので、これが終わるまではこのブログで行こうと思う。操作がうまく行かず今回は写真なし。 
 この写真が大量に未整理でのこっていて、考えると精神衛生上よくないので、うっちゃっている。


青い地球の川を旅して木を植えて(53)

ニアメの協力隊の人たち、1985年10月

 ニジェールの首都ニアメでは、海外青年協力隊の初代隊員たちにお世話になった。日本の国際協力事業団を通じて連絡先を頼んでいたので、セネガル以来、初の日本からの手紙を受け取れた。
 隊員の田村さん、月井さん、広野さんが共同で住んでいる宿舎に居候した。ニジェールは日本の3倍ほどの面積があるが国土のほとんどが砂漠で、人口(当時約5百万人)の大半がニジェール川沿いに住んでいて、ニアメもニジェール川沿いに開けた首都と言うには小さな町だった。
 空手指導に来た月井さんから、聞いた話。
生徒達に、体力を作りのためのウェートトレーニングをやらせた。
「疲れるじゃないか。また今度にしよう、先生。」
またある日、寸止めばかりじゃつまらないだろうと、当てるワザを使ってみた。
「痛いじゃないか先生。よした方がいいよ。」
別の日、回し蹴りや飛びけりの危険なワザを教えようとした。
「危ないじゃないか。無理しない方がいいよ、先生。」
 月井さんは「こんな国で空手を教えるは大変だよ。」と顔をしかめて嘆いた。
 しかし、のんびりして明るく国全体がアフリカの田舎のような、人のいいニジェール人は好きになった。ニジェールは発展途上のアフリカの中でも特に遅れている国のひとつだけれど、夜一人で歩いてもまったく平気なニアメの町は安心できた。
 月井さんは、休暇でコートジボアールの首都アビジャンに行った時、強盗に襲われてナイフで刺された。アフリカでも海岸の国は発展し、首都に人口が集中して、スラムができ、貧富の差ができ、治安の悪化している国が多い。
 当時、ウラン産出でニアメの町も大きくなっていく過程にあった。ニジェールは貧富の差ができ治安が悪くならない発展の仕方を見つけてほしい、と願った。
 ニアメの協力隊員から、いい人でいようとするとここでは苦労すると聞いた。
 ここの協力隊員たちは初代であった。だから皆良い友人を作ろうと努力した。友人になるとニジェール人に限らずアフリカの人たちは、食事に招待してくれる。お返しにこちらも招待し、お礼のプレゼントをする。協力に来ている日本人だから、彼らのもてなし以上にもてなす。
 ここで、相手との関係にズレが始まる。金持ち日本人と思われると、次々とあれが欲しいこれが欲しいとお願いしてくる。それに答えていると、いい日本の友人としてますます好かれる。日本からいい時計、ラジオ、テレビを買ってきてくれと要望はエスカレートしてくる。日本の惻隠の情は通用しない。
 我慢の限界に来て、関係を絶つと、評判は一変する。「あの人は悪い人になった。」「いやもともとケチで悪い人だったのだ」とまでなる。ニジェールに来て一年位でこんな経験をしてニジェール不信に陥り、ノイローゼに近くなり体調を崩してしまう人までいた。
 アフリカの料理は手づかみで食べるのが基本で、欧米人には不評だ。アフリカ人は、食事を一緒にすると本当に喜んでくれる。欧米人は、このあたりはっきりドライに割り切ってアフリカ人との付き合いに距離を置く人が多い。
 日本人でも、すこしドライ気味で、付き合いの距離感をしっかり持っている人はニジェール人としっかり付き合っていた。もっとすごい人もいた。本当に質素な生活をし、いつもぼろきれのような服を着て、ニジェール人から服をもらい食事をおごられ続ける猛者もいた。仕事の成果はしっかりあげ尊敬もされていた。
 僕らは、お人よしの日本人をついつい演じてしまい失敗することがその後もあった。持ちすぎず、ケチでいたくもなかったが、そうすればアフリカの習慣の餌食になる。自分達は持てる者といううしろめたさが、こびり付いて離れなかった。
 というより、ただの見栄っ張りと気づき、笑って「ノン」と言えるまで、もう少しかかった。「なにかくれ」笑って「ノン、なんもないよ」。「ケチ!」「薄情もの!」とフランス語で言い返す子供も多かったが、挨拶の一種だと割り切った。

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